青いクレヨン        東京都

 「いい家見つけたよ。」
 学生食堂で昼食をとっていた私に、Aはそう話しかけてきた。
 Aは、住んでいたアパートが大学から遠く、引っ越ししたいと以前から言っていた。しかし、大学の近辺は家賃が高く、なかなか良い物件が見つからないとずっとこぼしていたのだ。
「よかったなぁ。近いの?そのアパート。」
「近いよ。おまけに一軒家。」
「え?!一軒家?そりゃ、家賃、高いだろう?」
「へへへ。探せばあるもんだよ。格安。お前のアパートより安いかも。」
「まさか。何か訳あり?」
「さー?どーだろ。ちょっと古いからかな?ま、一度遊びに来いよ。」
「ああ。行く行く。」
「引越祝い持ってこいよ。」
「ばーか。」
うれしさを隠しきれないといった様子のAは、私に簡単な地図を書いて渡し、その場を去っていった。

 それから十日ほどして、私はAの家を訪ねた。あの学食の日以来、彼を学内で見かけることはなかった。引っ越しで忙しいのかとも思ったが、学生の引っ越しにそんなに時間がかかるはずもない。風邪でもひいて寝込んでいるかもしれないと思った。当時は携帯など無く、部屋に電話を置いている学生も少なかったので、寝込んでしまうと誰にも助けが呼べなくなってしまうことは充分に考えられた。

 大学にほど近い高台にその家はあった。築30年は経っていそうな木造の2階建て。確かに古いが小さな庭もあり、Aから聞いてた家賃は破格だと思った。
「おーい。来たぞー。」
「・・・・おー・・・・。」
2階から下りてきたAはひどく顔色が悪かった。少し痩せたようにも見える。
「どうしたんだ?ひどいぞ、その顔。」
「・・・ん?何でもないよ。それよりどうだい。凄いだろこの家。」
「ああ、確かに凄いが・・・。」
「あがれあがれ。引越祝い持ってきたか?」
「ああ。酒持ってきたぞ。」
「おお。すまんな。早速やろうぜ。」

  靴を脱ぎ、玄関の板間に上がった私は何とも言えない気分に襲われた。全身を圧迫感が包み込んだのだ。そして、その・・・、どう言えばいいのだろうか・・・、その圧迫感には・・・高い湿気が含まれているような気がした。ぬめっとした粘りのある、かび臭い湿気が

 居間に入りAと向かい合わせになった私は、彼の顔を見た。顔は土気色と言っていい状態になっている。つやもなく病人そのものの顔色だ。しかし目だけが異様にぎらぎらとしている。
「お前、本当に大丈夫か。」
「何が?何ともないって。元気そのものだよ。」
「じゃ、どうして大学に出てこないんだ。」
「居心地が良くってね。なんだか家を出たくないんだ。」
「出たくないって。なんだいそりゃ。とにかく出てこいよ。」
「わかったわかった。それより、酒、飲もうぜ。」
私もそのつもりだったのだが、さっきからまとわりつく圧迫感に私は耐えきれなくなり始めていた。
「この家、なんだかおかしくない?息苦しいよ。」
「何言ってんだ。こんな良い家無いよ。この場所でこの広さ、そしてこの値段だぜ。ついてたよ。」
「だからおかしいんだって。あり得ないぜ、その家賃。きっとなんかあるって。」
「何、妙なことばかり言ってんだ、さっきから。もういいよ、帰ってくれ。」
そう言うが早いか、Aはぎらつく目をつり上げて立ち上がり、私を立たせ追い出そうとした。あまりの様子のおかしさに、私はとりあえずその日は帰ることにした。
 玄関で靴を履いているとき、私は見慣れない物が土間に落ちているのに目をとめた。
 それは青いクレヨンだった

 その夜、ふと思い立ってアパートの廊下に置いてある共用電話の受話器を取った。不動産屋に勤めている従兄がいることを思い出したのだ。
 電話口に出た従兄に事のあらましを説明すると、確かにその間取りでその値段は不自然だと言った。一度見てやってくれないかと頼み、従兄の仕事の休みの日にもう一度彼のアパートを訪ねることにした。

 それから1週間ほどが過ぎたが、まだAは大学に出てこない。
 従兄を伴って再びAの家を訪ねると、Aは生気のない顔で出迎えてくれた。そしてあの圧迫感はやはり襲ってきた。
「久しぶり。こちらは?」
「従兄なんだ。不動産屋をやってるんだけどね。この家のこと話したら・・・」
「いやー良い家ですね。」
私の話に割って入るように従兄はしゃべり出した。
「この家のこと聞きましてね。そんな凄い物件があるのなら後学のために是非拝見したいと思いまして、無理を言って連れてきてもらったんですよ。
 確かに少し築年数は経ってますが、造りはしっかりしてますし、使ってる木もいい。
 こりゃ、掘り出し物ですね。」
「そうでしょ?まぁ、あがって見ていってください。」
「よろしいんですか?」
「どうぞどうぞ。」
 Aに案内されて入っていく従兄の後ろ姿を見ながら、素早く相手の心をつかむのは、さすが営業マンだと私は舌を巻いた。
 私も2人の後に従って廊下を歩いていたが、妙な物が落ちているのに気がついた。
 また、あの青いクレヨンだった
 ちびて小さくなった青いクレヨン。そんな物が学生の1人住まいの家に落ちていることに、私は言い知れぬ違和感を覚えた。
「絵でも描いてるのか?」
後ろから私はそうAにたずねた。
「え?何のことだい?」
「いや、こんな物が落ちてたからさ。」
「何だいそれ?クレヨン?俺のじゃないよ。」
「誰か子どもでも来たの?」
「子ども?来るわけないだろ。そんな知り合い居ないよ。」
「先日来たときも、玄関に落ちてたぜ。」
「知らない。前の住人のじゃない?」
 私とAがそんなやりとりをしている間、従兄は1人で家中を見て回っていた。そして首をひねりながら何度も1階と2階を上り下りしているのだった。

「変ですね。」
 しばらくして、居間で待っていた私たちのところへ、従兄はやはり首をひねりながら戻ってきた。
「変って、何が変なんですか。」
少し気分を害した様子のAが尋ねた。
「いや、間取りが少しおかしいんですよ。いいですか。」
そう言うと従兄は鞄から紙と鉛筆を取り出すと、1階と2階の間取図を慣れた手つきで描いて見せた。
「ほらね。」
「ほらねって、何が変なの?分かるように言ってよ。」
「よく見てごらんよ。1階の広さがこれだけで、この家の構造は1階と2階が同じ広さのはずだから、2階を重ねてみるとぴったり重なるはずなんだけど・・・」
「あれ?足らないや。」
「だろ?階段を上がった右側のここ。ここにもう一つ部屋が無くちゃおかしいんだよ。」
「本当ですね。住んでたのに、気づかなかったな。」
「ちょっと見てみましょう。」
私たち3人は2階に上がり、従兄が示した壁の前に立った。従兄は壁を軽くボールペンで突くようにたたいている。
「この壁の向こう、空洞になってる。何かありそうだね。」
「剥がしてみましょう。」
Aはそう言うと、壁紙を剥がし始めた。私たちも手伝った。壁紙を剥がすと明らかに素人細工と分かるような、おおざっぱな貼り付け方でベニヤ板がはってあり、そのベニヤも簡単に剥がすことができた。すると、そこには引き戸が現れた。開かないように木の板が打ち付けられている。
 私たちは、何かに取り憑かれたように夢中になってその板を外した。そして引き戸の引手に手をかけ力を入れると、がたがたと音を立てて開いた。
 ぽっかりと開いた真っ暗な空間からは、濃密な湿気とかび臭さが流れ出してきた。
 壁を探ると灯りのスイッチが見つかった。スイッチを押すと、切れかかって薄暗くなった蛍光灯がぼんやりと点った。
 そして私たちの目に飛び込んできたのは
 部屋の壁一面、青いクレヨンで書かれた

おとうさん ごめんなさい ここからだして
おとうさん ごめんなさい ここからだして
おとうさん ごめんなさい ここからだして
おとうさん ごめんなさい ここからだして

という無数の幼い文字だった


この話はいくつかのバリーションがあり、赤いクレヨンだったり、部屋ではなくて、押し入れだったりするようです。出所は、恐らく、タレントのH.I氏の体験談だと思われます。昔テレビで語っておられたのを見た記憶があります。