泣く子

 「なんか聞こえません?」
つもってきた牌をそのまま切ろうとした手を止め、対面(といめん=麻雀用語。向かい側に座っている相手)の男が言った。彼はこの部屋の住人だ。

 そこは初めて訪れたマンションの一室だった。今声を発した男は初対面だったが後の2人は古くからつきあいのある友人だ。そのうちの1人から、休日の夕刻、突然、メンバーが集まらないから来ないかと電話がかかってきたのだった。元来、麻雀は好きな方であるが、牌を握るのは随分久しぶりだった。
 夕飯を店屋物で済ませ、対局を始めたのは午後7時ぐらいだった。
 半荘を数回こなしたが大きな火傷をする者もおらず、一進一退の攻防が続き和気藹々としたムードで時間は過ぎていった。
 皆、ごく普通の勤め人で、賭け事にのめり込んでいるわけではない。ごくたまに小さなレートで卓を囲むのだ。金銭のやりとりではなく、麻雀をうつということを楽しむのだ。
 今日は初めての場所で、いわゆるアウェイ。おまけに見知らぬ人が卓に一人いる。手筋は読み切れない。レートが高ければ脂汗が出そうな状況だが気楽に打てるレートなので適度な緊張感となり、それが楽しい。
 夢中になって打っていると、時間はあっという間に過ぎ、そろそろ腰が痛くなってくる深夜となった。
 こんな時間に腰にくるなんて年だなと皆で笑い、この半荘で終了にするという約束で最後のゲームを始めた。
 東場は大きな波乱もなく小さな上がりが続き、南入。私の親。さあここからが勝負と気合いを入れ直し、親満を一つものした。よし連チャンだと、サイコロを振り、牌が配られ、2巡目、牌をつもった対面の男が声を発した。

「なんか聞こえません?」
「なんかって?」
「うん。ほら、泣き声。小さな子どもの。」
「え?・・・・・・・・・・・・・ほんまや。聞こえるな。隣?」
「いや。近くの部屋には小さい子なんていませんよ。それに、どうも外から聞こえる気がする。下の駐車場から。」
「外って、もう、2時過ぎてるで。」
「うん。そうですね。でも、ちょっと見てみますわ。」
そう言うと彼は、ベランダに出るガラス戸を開け、手すりから身を乗り出し下を覗き込んだ。
「やっぱりいますわ。しゃがみ込んで泣いてる。」
「えー?」
私たち3人もベランダに出た。ここは3階なので駐車場を一目で見渡せる。
「どこ?」
「すぐ下にいるでしょ。」
覗き込んでみると確かに小さな女の子がうずくまっている。防犯用の照明が小さなおかっぱ頭を照らし出している。そして、すすり泣く声は室内よりはっきり聞こえてくる。
「こんな時間にどうしたんやろ。親は何してるんや。」
「このマンションに住んでる子か。」
「さぁ、どうでしょう。とにかく、私、行って見てきますわ。」
「そうした方がええな。俺も行くよ。」

 私達2人は、エレベーターに乗り、階下に降りた。
 エントランスではなく裏口に出る通路を通り、駐車場に出た。小走りで先程女の子がいた辺りへと近づく。

 しかしそこには誰もいなかった。

 上を見上げると部屋に残った2人がこちらを見下ろしている。顔は部屋の灯りが逆光となってよく分からない。

「どっち行った?」
時間が時間なので声を抑えながら上の2人に問いかけた。
「え? ひっ!」
ベランダの2人が妙な声を上げた様な気がしたがよく分からない。
「女の子、どっちに行った?帰ったか?」
「・・・・・・・・・・」
2人は返事をしない。
「どうした?」
私たちは上を見上げながら歩みを進めた。

突然上の男達が大声を上げた。深夜であるにも関わらず。
「上がってこい!」
「え?」
「いいからすぐに上がってこい!!」
訳が分からないが、何も見つけることのできない我々は部屋へ戻ることにした。
 玄関ドアを開けると、室内の2人はドア前で待ちかまえていた。
「入って早くドアを閉めろ!」
「一体どうしたんや。」
「どうもこうもあるかいな。お前ら、ホンマに見えんかったんか。」
「見えんかったって、何が。」
「何がて、あの子に決まってるやろ。」
「おったんか、どっかに。」
室内にいた2人は、私たちに居間に戻るように促し、座布団に座らせた。
「ええか。あの子、ずっとあそこにおったんやぞ。」
「あそこて、どこ?」
「何処にも動いとらん。ずっと同じ場所でうずくまっとったんや。」
「え?んなアホな。俺らそこまで行ってたやん。」
「そうや。あの子はお前らのすぐそばにおった。それでお前らがこっちに向かってしゃべり出したやろ。」
「うん。」
ただならぬことが起きていたことをようやく悟った私たち2人は、息をのんで続く言葉を待った。
「その時、お前らの方見て立ち上がったんや。それから
「それから?」
「お前らの顔を見上げた。小さい子やから、しっかり首を上に上げて見上げたんや。せやから俺らにも見えた。」
「見えたて、何が?」
「その子の顔や。 ぐちゃぐちゃにつぶれとった。顔なんてもんや無かった  。」
「それから、お前ら少しずつ前に歩いたやろ。こっち見上げながら。どんどん女の子に近づいて行ったんや。それでも女の子はその場所動かんと、じっとお前ら見とった。」
「声出そうと思たんやけどな。俺らすくんでしもて出んかったんや。すまんかったな。 それで、もう、ぶつかるっていう時に
あの子、消えたんや。パッ、と。ホンマ、パッ、って感じで消えたんや。」

 私たちは声もなかった。
 その夜は遅くなっても家に帰るつもりだったのだが、そのためには駐車場に行って自分の車に乗らねばならない。その勇気が出ず、結局私たちはその夜はそのマンションの一室で過ごした。
 無論麻雀を続ける気にもなれず、ビールを出してもらってそれを飲んだが眠ることもできなかった。


 後日、あのマンションの住人が近所の人に聞いたところによると、随分昔に小さな女の子の転落事故があったのだそうだ。

 即死、だったそうだ。


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