奥吉野奇譚

 ゴールデンウィークを利用して私たち家族はキャンプに出かけた。
 昨年までは子どもたちにあまり負担にならないようにと、近場のキャンプ場を利用していたのだが、そろそろ子どもも大きくなってきたし良いだろうと、少しだけ遠いキャンプ場を選んだ。奈良県の吉野の奥の方で、自宅からは3時間弱の距離だ。
 ひょっとして吉野の桜がまだ残っていないかと期待していたが、今年の春は暖かく、八重がわずかに残っている程度だった。
 予約していたテントサイトに、タープやテントを張り、遅い昼食を用意して食べ、夕刻はキャンプ場の横を流れる渓流に降り、息子や娘に網で魚を捕る方法を教え小魚を捕って遊んだ。
 渓流の水は冷たく痺れそうなほどであったが、子どもたちはすぐに夢中になり、髪の毛が濡れんばかりに顔を水面に近づけ小さな魚を探していた。夕陽に水面がきらきらと光り、宝石のように光る水しぶきを上げて魚採りに興じる子どもたちの姿を見ていると、知らず知らずのうちにたまっていた日々の疲れがゆっくりとはがれ落ちるようにとれていくのが分かった。
 明日は魚釣りをしようと約束して川からあがり、テントサイトに戻った私は妻とバーベキューの準備を始rampめた。
 大量に用意した肉と野菜は楽しい夕餉の中であっという間になくなった。
 家族そろっての健啖ぶりを喜び、食後はトランプ、花火に興じ、子どもたちや妻の嬌声と笑顔に包まれて、時間は瞬く間に過ぎていった。
 明日も早いからと、テントに潜り込んだ私たちは、昼間の心地よい疲れもあって4人ともあっという間に眠りについた。

 どれぐらい時間が経ったろうか。眠りの中で私はだれかがテントの中で立ち上がっている気配を感じた。娘か妻のようである。ぼそぼそという話し声も夢うつつの中で聞いたような気がした。
「なんだ?トイレか?」
そういって私は重いまぶたをこじ開けた。
「ん?だれだ?」
寝ぼけてかすんだ目にはぼやけてよく分からない。目をこすりながらもう一度よく見てみると…。
 そこにいたのは、テントの屋根から上半身だけを中に入れ、宙づりの状態で反り返りながらこちらに顔を向けている女の姿だった。その女の顔には、目や鼻はない。幼い頃怪談で聞いた「のっぺらぼう」なのだ。顔の前に下げた両手は異様に小さい。
 「そんなばかな」
心の中でそうつぶやき(この時点で私はまだしっかりとは目覚めていなかったのか、不思議に怖さはあまり無かった。)念仏を唱えながら目を再びごしごしとこすった。

 目を開けた時には何もなかった。

 何を見間違えたんだろうとテントの天井をいろいろと眺めてみたが、見間違えるようなものは何もない。しかし見たものが見たものだけに、私は自分を疑っていた。幽霊らしきものならまだしも、「のっぺらぼう」だ。おまけに顔の下で両手を下げている格好は、それこそ絵に描いた幽霊のようだった。いくらなんでも馬鹿馬鹿しい。
 私は、寝袋に顔を埋め再び眠りに落ちた。

 明くる日、キャンプの常で早く目が覚めた私たちは、朝露でしっとりと濡れ鳥がさえずるさわやかな森の中で、早い朝食をとっていた。
 少し怖がらせてやろうと、昨夜の話をしだすと、妻は少し顔色を変えた。

「実はあたしも見たの」

 妻も同様の体験をしていたのだ。
 だれかが立ち上がっている気配。私と違ったのは男の気配だったそうだ。私が起き出したと思い、なんだろうと目を開けた妻が見たのは、のっぺらぼうでは無く、中年の男性だったそうだ。テントの中で立っていたらしい。
 何度か奇妙な目撃体験をしていて、あまりそういったことに怖がらない女だが、なぜだか今回は詳しく語りたがらない。きっと相当に怖かったんだろうと思う。

 昔から様々なことがあった吉野の地だから妙なものがいても不思議ではないと思うが…。

しかし…。

のっぺらぼうなんて…。


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