妻を起こす

 この春、私の姪は京都のとある短期大学に通うことになった。姪は自らが志望する進路にあわせて大学を選び、それは偶然、私の住まいから徒歩10分という距離にある大学だった。
 姪の入学を祝うため、入寮式の当日、私は姉夫婦(姪の両親)と共に、私の家の近くの料亭に席を設けた。祝いの席であると同時に、姪が兵庫の実家を出る惜別の宴でもあった。
 私たちが通された料亭の部屋はそんな席にふさわしく簡素で落ち着き、ガラス戸の向こうに見える京風の庭は、朝から降る春の柔らかな雨にしっとりと濡れていた。
 その席には、姪の祖母も招いていた。
 宴がかなり進んだ頃、ふと、姉が思い出したようにこんな事を言い出した。
「今朝ね、お義母さんね、お義父さんに起こしてもらったのよ。」
私は何のことだかよく意味が分からなかった。義父は数ヶ月前に他界しているのだ。きょとんとしている私に気づき、姉は説明を始めた。

 義父が他界した時にはすでに孫の大学への進学は決まっていた。かわいい孫の大学入学は、彼にとっては大きな喜びであったはずである。と同時に、遠く離れた京都の地へ孫を一人旅立たせることを大変に心配していたはずである。
 だから旅立ちの日の今日、義父は現れたのだ。
 そして、眠っている彼の妻に、こう声をかけたのだそうだ。
「おい、今日は京都へ行くんやろ。早よ起きや。」
 彼女はすぐに目覚めることはなく、その声をきっかけに彼の姿を夢で見た。
 彼女の夫は生前の姿そのままに、家の前の畑にいた。彼女に背を向けた格好で畦に佇んでいた。そして、畑に向かって放尿を始めた。
 あまりの懐かしさに彼女はしばらく見とれていたが、先程の夫の言葉を思い出し、慌てて目を覚ました…。

「だから、今日、この席に、きっとお義父さん、来てると思うの。」

 姉はそう言う。私もそう思った。この部屋のどこかにいる姪の祖父が、生前と同じように、柔和で暖かなまなざしをかわいい孫に向けている、そんな気がしてならなかった。

 しんみりした気分は長くは続かず、宴は楽しく盛り上がり終わりを迎えた。
 荷物を持ち、軽く回った酔いを心地よく感じながら私は立ち上がった。
 そして部屋から出る直前、ふと振り返ったガラス戸の向こうの庭に、生前義父がよく着ていた作業着がチラっと見えたのは、おそらく私の気のせいなのだと思う。

 雨は何時しか上がっていて、部屋には春の光が差していた。


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